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車と経済-常識という鉄鎖から解放されるために

カーフリー・シティを目指して

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Carbusters Czech Republic 斎藤 絵里佳 埼玉育ち
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2010-04-12
 

 思い込みや固定観念から自分を解放することは、自由の最も力強い形のひとつかもしれない。「車のない都市」を奨励する私たちにとって、この感覚はいたって身近なものだ。「車は移動手段として必要だ」という神話からの脱出は、私たちに、まったく新しい生き方の可能性を開き、多くの隠された真実を明らかにしてくれる。

 経済もまたしかり:私たちは多くの物事を、説明するまでもない自明な「真実」であると捉えている(ときに検証に耐えない説明をすることもあるが)。しかし、そのような「真実」を乗り越えたとき、私たちはすばらしい可能性を発見することができる。もちろんそのためには、専門用語を理解し、私たちを固定観念にどっぷり浸からせて来た議論の正体を把握する努力が必要だ。人々の知識・見解を広げ、「常識」から解放されることなしに、カーフリー・シティは実現しないだろう。


 哲学者ハンナ・アーレントは1975年、すでにこう言っていた。「車の生産は、人々の移動手段のためではなく、雇用の獲得のために必要であるという見解は、ほぼ全世界の共通認識となっている。」(ハンナ・アーレント「責任と判断」)

 アーレントは更に、現代社会は「かつての生産社会とは違い、巨大な浪費の経済へと変化していくことによってのみ存続している消費社会」であるという。この社会で、進歩とは「無駄使いを止めよう、より多く・より早く消費することを止めよう、もう十分だ、これ以上必要ないと、どこかで言ってしまうことが即時に破滅を意味する」ようなものなのだ。(同書262ページ)

 これは経済学者ジョン・ガルフレイズの言う「ハムスターの回し車」的世界である。私たちが懸命に働いて市場に出す膨大な量のモノを、購入する価値があると私たち自身が信じられるように、私たちは宣伝に力を入れなければならない。さもなければ、私たちの需要は供給に追いつかないからだ。そして、私たちは元々欲しくなかったものを手にするために汗水たらして働くのだ。」(ジョン・K・ガルブレイズ 「ゆたかな社会」1958年) 

 このような消費社会では、たとえ多くの消費者には手の届かない高級品でも、経済を動かし続けるために生産し、売らなくてはならない。銀行は分不相応なローンを組み、システムが破綻した時には政府(つまり人々の税金)が救済に入る。大手企業や銀行の経営陣にとって大変都合のいいこのシステムは、買手である大勢の人々にとって、いったいどんな利益があるのだろう。

雇用

 自動車産業が雇用を創出していることは間違いない。しかし、アーレントは尋ねる。移動手段のためではなく、雇用のために車を生産する。それは奇妙なことではないのか?

 私たちが問うべきなのは、「自動車の生産・販売・整備が、どれだけの雇用を創出するか?」、ではなく、雇用機会を増やすための手段として、「自動車産業より低コスト(経済的コストに加え、公害や環境破壊など生活の質に影響するコスト)な選択肢はないのか?」、ではないだろうか。
 自動車の大量生産を続けることや、そのために公的資金で大手自動車メーカーを救出する必要性にこだわる人々が、機械化やオートメーションによる雇用機会の減少を疑問視しないのは皮肉なことだ。

 「多くの人々の生活が自動車産業に依存している」ことを、疑い得ぬ事実として見ると、「どれほどコストが掛かろうと車を生産し続けなければならない」ことに帰結してしまう。しかし、「車の生産が、移動手段の充実ではなく雇用のために主に保たれている」という現実に気がつくと、生産自体のコストが目に映るようになる。

 どれだけの量の原料、水、エネルギーが車一台を作るのに必要なのか。そして生産された車は走行の際に、どれだけのエネルギーを必要とするのか、どれだけの人々が車の衝突事故で怪我をしたり命を落としたりしているのか?
このような視点で生産のコストを見直してみると、雇用を支えるための犠牲が割に合わないものに思えてくるだろう。

 雇用を支えるために、自動車産業以外の選択肢はないのだろうか?実際には、武器、タバコ、ファーストフード、ソフトドリンクなどを除けば、大抵の製品は環境、健康、生活の質の面において車よりもずっと破壊性が少ない。もし人々が車の消費をやめたら、それによって残る大量のお金を、破壊や貧困のためでなく、本当の富を作るための経済活動に投じることができる。副次的に雇用機会も生み出すことができる。

 ひとつの解決案としてこんなのはどうだろう。自動車工場を自転車や公共交通の手段を生産する工場に転換すること。車への需要が減れば自転車や公共交通手段への需要は急増するだろうから、シンプルかつ理にかなう解決策だ。幸運にも経済はかつてない形態で変わってきているし、消費者は自然に新しい環境に慣れていく傾向にある。例えば、タイプライターが事実上使われなくなった時、どこから抗議が出たのだろう。

自分は豊かで社会は貧しい

 「近代社会」の、どうしても好きになれない一面は、信じられない格差の広がりだ。一部の人々が莫大な富を楽しむ一方、社会に役立つ公共サービスは貧しいままだ。人々は自分の家をきれいに保つために、ごみを定期的に外に捨てている。通りにはごみが溢れ、公共の清掃事業は大抵不十分。高価なエンターテイメント・システムを設置した家がある一方で、子ども達は古臭い設備で満たされた学校に通っている。一部の人々は何千万ドルか、それ以上する高価な車で移動する一方、バスなどの安い交通機関は資金不足でスケジュールの管理もままならない。

 「定期的にアップグレードしなければ自分の車は時代から遅れている」、と消費者に意識させることで、売り上げを伸ばすために次々と加えられる「改良」には、底なしのクリエイティビティが費やされる。歩道や自転車用道路のコンディション(もしくはそれらの必要性)について同様の考慮がなされることはまずない。

 このような格差の理由は、ガルブレイズが名著「経済と公共目的(JKガルブレイズ『 Economics and the Public Purpose』1975年) で述べているように、明らかである。ガルブレイズは、消費者が求めるものが市場を通じて会社に伝わり、会社は事業としてそれらの声に応える、という見解(つまり、消費者がシステムの動力源であるという考え)を真向から否定した。
 消費者の欲求による市場の圧力に直面するのは小さい会社だけで、大企業は消費者のニーズに応えるどころか、コストや価格、消費者、そして時には政府までもコントロールしている。経済システムの動力源は、消費者ではなく、これらの大企業である。ゼネラルモーターズ(GM)の儲けはGMの儲けであり国のものではない。

 そのため、一部の大企業に巨大な利益をもたらすために、世の中に必要のない製品が異常な量で市場に溢れでるという不条理な結果を生んでいる。「マジゾン・アベニュー*」は、必要のないモノを消費するよう人々を納得させるクリエイティブな方法を見つけ出すのに目が廻る忙しさだ。

*訳注:「マジソン・アベニュー( Madison Avenue )は、ニューヨークの通りの名前にちなんだ、アメリカの広告産業の代名詞。


 その一方で、 安価で質の高いヘルスケア、設備の整った学校、きれいな空気、安全な歩道、充実した公共交通機関など、人々が本当に必要としているモノやサービスは、たいていの場合、市民の利益と正反対の結果に終わる政治闘争のネタでしかない。

「ノー」と言うことを覚えよう

 ガルブレイズは(少なくとも私が知る限り)、カーフリー・シティの推奨者だと公言してはいないが、車と社会のあり方に関する彼の問いは、カーフリー・シティ支持者にとって大変興味深い。
 すなわち、新たに学校を建てようとする時に、市民がその必要性を主張しなければならないように、車を買いたい人の側が、その必要を示さねばならないとしたらどうか?もし、車の購入は不要であることが前提で、必要であると証明するのが購入希望者の義務であったとしたらどうか?そして、もし教育施設や公共交通手段については、その反対に、不必要であることが証明されない限り、数を増やし、質を高めることが社会にとって良いことであると捉えられていたとしたらどうか?

 税金の徴収システムが、斯くまで富裕層と低所得層の不公平を作り出しているときに、公共の利益のための出費がどこから捻出されるのか、と問うのは、やや不誠実ではないか。「社会の貧しさ」には、誰もが被害を蒙っている。なぜなら、富裕層とても交通手段、安全、より良い学校施設、良質なヘルスケアなどに巨額の資財をつぎこまなければいけないのだから。
 そう考えると、私的な消費よりも、基礎的で公共的な要望を優先するように税収システムが修正・方向転換されない現状が、さらに不条理な世界に見えてくる。

 社会主義者でなくても、あるいは人々の経済的平等を信じる立場でなくても、政府がまともな交通網を作らないがゆえに、個人が大金を払って移動手段を確保しなければいけないシステムは、何かがおかしいと感じるはずだ。車の生産は交通手段の充実ためではなく、雇用を生むために保たれているという現実を思い起こすと、このようなシステムは合理性を欠いているに感じるだろう。

 政府は、自動車産業の無責任な利益追求による問題を公的資金で救済するのではなく、より使いやすい交通手段、歩道、自転車専用道路、設備された公園や学校、質の高いヘルスケアなど、公共サービス拡充のための投資によって雇用を創出するとしたらどうだろうか。そして市民も、自然を破壊し将来の経済の基盤を壊すような仕事で、賃金のためだけに働くよりも、社会の富の拡充に貢献するような仕事を選ぶことができたらどうだろう。

 それでもまだ車に乗りたいと思う人は?ガルフレイズの議論をもう一度考えてみよう。「市街地での車の使用や無計画な住宅地の開発は、それによって個人が得る利益より、コミュニティー全体が被る悪影響のほうが遥かに大きい。これまで個人の求める便利さが、社会的コストを犠牲にしても優先されるべきと考えられてきた。しかし、合理的な法的判断は、社会全体のコストや快適な生活が、個人の利益により犠牲になってしまう場合、政府がそのような事態をまねくサービス、テクノロジー、モノの消費を排除することを求めている。」(JK Galbraith, 『Economics and the Public Purpose』290-291ページ)

 つまり、主要企業の利益の追求が公共の利益を妨げる場合、政府は市民の生活を守る義務があるのだ。これを車に関する問題に置き換えてみると、市街地での自動車の走行を禁止するべきだということになる。

休暇をもっと活かしてみては?

 ガルフレイズ(そしてイリイチや、その他の多くの著者)が述べるように、また、ヨーロッパの国々での実践が示すように、「ハムスターの回し車」的生活から逃れるひとつの方法は、働く時間を少なくすることである。

 週36時間労働で、毎年6週間の休暇を付与され、しかもたっぷりと長い育児休暇と充実した給付制度がある・・・どうしてヨーロッパではこんなシステムが可能なのか疑問に思わないだろうか?ヨーロッパ人ももちろん車を持っている。しかし、アメリカ人のようにやたらと乗らないし、圧倒的に充実した公共交通機関と、徒歩や自転車のために整備された環境を持っている。この比較だけでも、既存システムを見直したくなるのに十分かもしれない。
 誰も必要としていないモノをあくせく作り、それを買うために懸命に働くよりも、労働量を減らし、且つ、より有益で平等に分かちあえる富を生み出す働き方のほうが良いではないか。

 私たちの社会の現状を考えると、カーフリー・シティの実現は、将来の繁栄のために絶対に欠かせないと私たちは考えている。課題は、 経済の基礎的事実を私たちから隠し続ける大企業とエコノミストに反論することを覚え、同時に不況などの短期的な問題のみに囚われないことである。経済学に対する私たちの畏敬を乗り越え、私たちを盲目のままにしておこうとする人々に反論することは、私たちに「車のない都市」の夢を実現させる力を与えるだろう。そして、私たちが最も深く信じ込まされてきた錯覚のすべてから、私たちを解放してくれるだろう。

記事提供:Carbusters (カーバスターズ、「車なんかいらないぜ!」)
記事と写真: Debra Efroymson ( HealthBridgen, Bangladesh)
翻訳:斎藤 絵里佳


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