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報道という劇場 ---オリンピック観戦から思うこと

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高橋幸世 バンクーバー、カナダ
day
2010-04-19
 

「現実」であるはずの街で

 2010年の冬のオリンピックは、バンクーバーが舞台だった。選手村から徒歩3分、開会式の会場からは徒歩10分というロケーションに住んでいるため、オリンピックに向けて刻々と変化していく街の表情を、もう何年も前から眺めて来た。

 空港とダウンタウンを結ぶ新しい交通網<カナダ・ライン>建設のために街のあちこちが掘り返され、選手村の建設のためにクレーンが林立し、オリンピック景気を見込んだ店が開店し、マスコットをあしらったオリンピック商品が街のあちこちに出現した。
 一方で、ダウンタウンの美化計画の一環としてのホームレス対策には批判の声も聞かれ、オリンピック予算との直接の関係はいまひとつ明らかではないものの、アート助成金が大幅にカットされるという事態も生じて、この騒ぎがヒトゴトではなくなっていた。

 そして、バンクーバー市民のはち切れんばかりの期待と、多少の不安とが頂点に達したところで、遂に開会の日がやってきた。聖火リレーが家の前を通過していく。この「ライブ感」はかなり奇妙だし、興奮もする。なんだか街中が熱に浮かれたようになっていて、家に籠っているのが勿体ないような気分になり、柄にもなく聖火を追いかけて彷徨ってみたりした。

 聖火の到着地点では、あまりの人出で、聖火そのものは背伸びしてやっとちらりと見える程度。その代わり、街路に設置されたいくつもの巨大モニターにばっちり映っている聖火を、群衆が見上げていた。現実の聖火と、テレビに映る聖火の映像。
 実はこれは、今回のオリンピック体験の象徴的な瞬間だった。<現実>というものがあるとすれば、それは、TVモニターの外にあるのか、中にあるのか。この問いは日増しに膨らんでいったからである。

聖火リレーゴール地点でTVモニターを見上げる群衆


報道が生み出す現実

 開会式は、テレビで見た。開会式が行われている<BCプレイス>は窓から見える距離。すぐそこにあるリアルな場所で今・現在行われているイベントをテレビの枠の中で見るというのは、それだけで不思議な体験だった。

 オリンピックが開催されている街にいれば、当然オリンピックを “生で” 見るのだろうと思うだろうが、実際にはそうでもない。チケット獲得合戦に乗り遅れた私が購入できたチケットは、女子カーリング予選の1枚だけ。しかもチケットはかなりの高額なので、余程のスポーツファンでもない限り、現地に住んでいてもほとんどはテレビ観戦となる。
 それから一週間程、オリンピックで沸き返る街の熱気を肌で感じながら、テレビ観戦する日々が続いた。実際に自分の足で観に行った聖火台の印象と、テレビの中に映っている聖火台の印象。人混みに紛れて見た聖火リレーの熱気と、聖火リレーの中継。確かに同じものなのだけれど、何かが決定的に違う。

 カナダのテレビ局は当然、カナダの選手に焦点を当てる。開催国の誇りと熱狂。見ているうちに、こちらまでカナダという国に住んでいることを誇りに感じ始めたり、一人一人の選手の人間ドラマに感動したり、すっかり<カナダの視線>に取り込まれてくる。しかし、ふらりと街に出ると、やはり現実のバンクーバーと報道の中のバンクーバーにある「ずれ」がどうも気になるのだった。
 ダウンタウンの発熱を他所に、静まり返っている町外れの商店街。いつもと同じように空き缶を集めて路地を徘徊するホームレスの姿。よそ行きに飾り立てられた選手村のすぐそばで廃墟と化している古いビル。テレビに映らなかったものは、報道の中では永遠に “現実” の仲間入りをすることができない。

 確かに、オリンピックの光と陰の、陰の部分も地元のニュースなどが時々取り上げてはいた。だが、それを含めて「報道によって切り取られ、編集されたもう一つの現実」であることに変わりはなく、報道を通してリアルな街の空気を再構成することの難しさを思った。

街はカメラの眼で切り取られて行く


 一方、カナダの報道にすっかり慣れた頃に、アメリカの放送局にチャンネルを合わせて愕然とした。こちらではアメリカ選手が世界の中心にいる。報道の焦点はアメリカのテレビ視聴者好みに選択され、切り取られ、<アメリカの視線>に貫かれている。

 リアルな、総体としての現実(そんなものが果たして本当にあるかどうかは別として)と、報道の中に切り取られた現実が同じものでないのは、考えてみれば全く当然のことだ。報道の中の現実が、常に、ある視点から編集された色付きの現実以外の何者でもないことも、当たり前なのかもしれない。
 そんなメディア・リテラシーのイロハのようなことを今更ながら「発見」してやたらに驚いてしまったのは、日々の報道の中の「現実」をいかに自分が盲目的に信じてしまっているか、オリンピックを通して、そのことにハタと気づかされたからであった。

日本の視線

 更に今回面白かったのは、オリンピックが半分終わったところで、日本に偶然帰国することになったことだ。現場での体験、カナダの報道、アメリカの報道。そして、今度は日本でのオリンピック報道。カナダやアメリカの報道ではほとんど取り上げられていなかった日本選手に焦点が絞られ、寝ても覚めても日本選手の話題が続く。選手の服装問題など、北米では想像すらできないようなことにも注目が集まっている。

 日本人選手の競技が全て見れるのは正直嬉しかったが、日本のテレビに朝から晩までかじりついていても、バンクーバーという街の空気や、オリンピックの総体には、なかなか辿り着けそうにないことが残念だった。
 日本に居ながらにして、カナダの、アメリカの、そしてアジアやヨーロッパや、その他いろんな国のオリンピック報道を見ることができたら、その断片を繋ぎあわせた先にある、生のオリンピックやバンクーバーという街の空気をもう少し感じることができるのかもしれない。

 しかし現状では日本のお茶の間からは一つの視点、<日本の視線>から見たオリンピック物語しか受け取ることができない。巧みに編集された番組の冒頭にチラリと映るバンクーバーの山並みや水辺を指差して「あ、ここ、このあたりに住んでるの!」などと叫んでみたのだけれど、その画面は2秒後にはCMに切り替わり、どうやってみてもバンクーバーの空気感を実家の家族にすらうまく伝えることができなかった。

現実のひとかけらを持ち帰ろうと、カメラを構える人々


複数の眼を持つために

 今回、オリンピックというイベントを現地と各国の報道の中で比較して見ることによって、報道というものが一つの視点から演出された現実の再編物に過ぎないことに今更ながら気づかされた。そして、オリンピックでなくとも、全ての報道がそうであることに思い至って、少しぞっとした。
 報道に接する時には、それがある視点の下に編集された「一つの現実」にすぎず、常に別の視点から見た現実、別の視点から見たもう一つの世界が存在することを覚えていたいと思う。

 Youtubeやブログ、SNSといったダイレクトで多様な情報源も、複数の視点を持つために役立つだろう。現実そのものの空気感に接近するための手段として、海外のテレビチャンネルを並立して見れるような環境の整備も、これからの時代にはスタンダードにならなければいけない。
 いろんな視点を混在させ、そのどの視点も固着することなく常に見直され、動き続けていくようなTVチャンネルやメディアの出現も必要となるかもしれない。すっかり静かになった祭りの後のバンクーバーで、そんなことを考えた。


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