一連の匿名贈与者について思うこと
カテゴリー:メンバー日記(世界の日常)
この数日間、一連の匿名贈与がメディアを賑わしている。これを掲載中の第7回共同リサーチの結果と比較してみると大変面白い。
今回のリサーチ結果が示すように、寄付を行う人は一般的に、その資金が有効に使われたか否かに強い関心を持ち、無駄な使われ方をされることに不満を持つ。この傾向は、金額の大きな寄付をした人に顕著に現れる。
そのために、資金の用途に関する報告をはじめ、活動に関する報告や、継続的で対話的なコミュニケーションを求めることが多い。
一連の匿名寄付では、ランドセルの贈与が多かったようだが、これは、資金の用途を把握したい、という意思の現れと見ることができる。これはリサーチ結果と一致する。
しかし、一連の匿名贈与者は、施設からの報告を期待していないようだし、「当該施設にランドセルが不足している」という事実を知っているのでなければ、この贈与は無駄に終る可能性がある。事実、ランドセルより現金のほうが有益だ、という声も聞こえる。
この贈与者は、資金を有効に使って欲しいという気持ちを持ちつつも、そのことを確実にするために、「当該施設で必要なものは何か」と問い合わせることを避けている。私たちのリサーチにおける回答者とは反対に、コミュニケーションを避けているように見える。
「コミュニケーションを避ける贈与者」には、二つの顔が見える。一つは、寄附を受けた経験があり、その経験に何らかの悪い印象を持った人だ。
私たちのリサーチでは、「寄附をする人」を対象にしたために、逆の立場の声を取上げていない。もしかすると、寄附を受ける団体からは、「絶え間ないコミュニケーションを要求する寄付者」は、必ずしも好ましいものではない可能性はある。煩いことを言わずに金だけ出してくれる人は、自分達を信頼してくれている筈で、その意味では有難い存在でありうる。
もう一つの顔は、「関わり合い」を避ける人の顔だ。私たちのリサーチ結果にもあるように、寄附をする行為は、自らを「好い気持ち」にさせるもので、それだけで満足できるものだ。
そもそも、匿名で寄附するという行為には、チャリティーを売名行為とか偽善として批判する価値観を内面化している印象を受ける。他者からの評価は要らない。むしろそれを求めない自分が美しいと考える自己満足の世界だ。その満足を実現するためには、その資金が本当に有効に使われるか分らなくても、構わない。というよりそのリスクは見えていないのだろう。
また他者からの評価だけでなく、他者との関わり自体を避けている印象もある。継続しての交流を煩わしいと感じているような。
しかし、現場にせよ、寄附する人にせよ、今の社会にしても、最も不足し、必要とされているのは、人々との「関わり合い」のほうではないだろうか?
この贈与者たちが、「関わり合いを避けている人」だとすれば、贈与行為自体は、喜ぶべきことである筈なのに、手放しで評価することはできない。むしろ、この現象は、昨年NHKでも取上げていた無縁社会の別の病症であるようにも感じられる。