原爆美術展の中止とアエラへの批判について
カテゴリー:メンバー日記(世界の日常)
水曜の午後、図書館で調べごとをして外に出ると小雨だった。傘を忘れたことに気づいてゲンナリしたが、仕方なく襟を立て、駅まで早く歩いた。呼吸を大きくしないように、息をつめて。
その時、大げさかもしれないが、広島の雨を思い出した。広島の雨に打たれた人々を、こんなに親身に感じたのは初めてのことだ。
目黒区立美術館は、予定していた原爆美術展を中止したそうだ。理由は「イメージ的に原爆と原発事故が重なる部分がある。この時期に鑑賞してもらう内容ではない」とのことだ。
この判断はおかしいのではないか。原爆美術展は、今こそやるべきだったのではないか。今ほど、関東の人々が原爆を身近に感じることのできる時期は二度とない筈だ(本当に二度とないかどうかは、私たちの今後の選択次第なので、現時点では希望的観測です)。
私は、この中止を聞いてアエラへの批判を思い出した。アエラは、「放射能が来る」という表紙が不安を感じさせるとして批判されたが、現に放射能は来ているのだから、アエラは事態の推移を正確に予想しそれへの対応策を分り易く書いていたことになる。
読めば分るのだが、記事は必ずしも不安を煽るものではなく、セシウムは思いので遠くまで飛散しないこと、ヨウ素の半減期は8日間であることなどの情報も書いてあり、バランスの取れた良い記事だった。
つまり、アエラを批判していた人たちは、恐らくアエラを読んでいないのだ。元々朝日の嫌いな人々が炊きつけ、多くの人は、いつものバッシングムードに乗っていただけだろう。
そして、もし美術展を中止した人々が、アエラのことを考えていたとしたら、このバッシングに参加していた人々は、原爆展を中止させることにも成功したことになる。私はアエラとは何の関係もないのだが、読まずに批判するような、自分で考えない人々のバッシングによって、言論の自主規制が広がることに危惧を感じるのだ。